崇めるのか、恐れるのか、使いこなすのか?

AIとは、さまざまな夢の総称

 自動運転、ゲーム解析ソフト、お掃除ロボット、“Siri”などのスマートフォンの音声アシスタンス、さらにはSNSのチャットボットなど、「AI」にはさまざまな顔がある。だが、結局AIとは何者なのかを明確に定義できる人は少ない。学会においても「知能を持つメカ」という研究者がいれば、「知能の定義が明確でないので、明確に定義できない」とする見解もある。AIとは現在進行系のプロジェクトであると同時に、「人間の知能を人工的につくれないか?」と夢見た科学者たちが、それぞれ思い描く夢を、さまざまなアプローチで挑戦した技術群の総称ともいえる。

 第二次世界大戦後の1956年、「思考する機械」を夢見て若手科学者たちが提唱し始めたものがAIである。この第1次ブームは概念や課題を後世に残すという功績を果たしたもののいったん下火になる。当時最先端のコンピュータですら、今日のスマートフォンのおよそ100万倍も処理速度が遅かったというハードの限界がそこにはあった。

AIを劇的に進化させた、インプット革命

 2次AIブームは1980年代半ば。「エキスパートシステム」と呼ばれるAIが盛んに開発された。たとえば薬学の専門家(エキスパート)が、「ある症状に対しどのように判断し、無数の薬剤の中から適切な処方を選び出すか?」をプログラミングしたものである。このブームもやがて下火となるのだが、そこに大きなヒントを残していった。「何を事前に学ばせておくべきか?」の観点と、「暗黙知」の重要性である。機械に判断させるためには膨大な知識と、それらを論理的にジャッジしていくための無数の判断基準をプログラミングしておく必要がある。過不足なく知識を言語化するために情報を取捨選択する重要性に気づいたのだ。それだけではない。大量の知識をインプットしてもなお人間の判断レベルに及ばないアウトプットを突きつけられたとき、人間は自らが言葉にできない、もしくは認識すらできていない「暗黙知」の重要性に気づいたのだ。

 この「言語化の壁」を乗り越えたのが、2000年代に誕生した画像認識技術である。パターン認識という言葉と並列して語られがちなこの技術は、まさに人間の成長過程のように、「目にしたもの」から法則性を自ら類推し、確立する。(他にも音声や文字認識もある)画像認識技術とSNSなどに代表される「ビッグデータ」が結びつき、「教えてもらえる知識に飢えていた」AIたちは、自分たちで情報を取り込み、咀嚼することができるようになった。もちろんそこに、ニューラルネットワークと呼ばれる情報解析技術と、コンピュータの性能の爆発的な進化があったことは言うまでもない。

人に近づいたAIだからこそ、つくれる「人間関係」

 こうして、俊敏な頭脳(ハード)と解析技術(ニューラルネットワーク)、そしてインプットする高度な五感(インプット手法)の3つを手に入れたAIは2000年代から起こった第3次ブームの最中でさまざまな分野に活用されている。路面の状況や危険物の認識パターンなどを読み込んだ自動運転車は、世界中で実用化が推し進められている。チェスや将棋の分析ソフトは過去何十年分もの棋譜を読み込み、人間界に君臨する名人を破った。「人間が不要になるのでは?」「仕事を奪われるかもしれない」という議論はこうして第3次ブームと共に巻き起こった。しかし、ここでようやく我々は新たな夢を持ちうるのではないだろうか。

 人間を超えようとするほどの能力を持ち始めたAIだからこそ、上でも下でもなく、互いに高め合う「パートナー」にできないだろうか、と。